
天孫降臨前から日本にいた種族
かつて、日本には、古代から独自の文化や技術を持ち、国家や村といった枠組みに属さず、 山々を移動しながら生活する、“山窩” と呼ばれる人々がいました。
彼らについては、謎が多く、民俗学的には実在が認められているものの、その伝承が超人的な内容も含まれており、 公的な記録が乏しいことから、学術的な評価が分かれています。
ただ、明治期以降、農林省や警察が「山窩」を調査していたことは記録に残っており、国家が何らかの理由で、 彼らの存在を意識して いたことがうかがえます。
じつは、山窩が持っていた独自の智慧やネ ットワークは、歴史の裏側で、古代から国家や権力構造に深く影響を与えていたようです。山窩の精神性と智慧は、 「修験道」 やその担い手である 「山伏」 に受け継がれ、いま、日本の目醒めのため、 動き始めています。
そんな “現代の山窩” でいらっしゃるのが、特集の最初にご紹介する宗源さんです。
山の中で龍との厳しい修行に耐え抜いた修験者宗源さんは、数々の奇縁に導かれ、 ご自身が山窩の最後の頭領の曽孫であることに気づかされます。この記事の前半では、宗源さんに教えていただいた山窩像に迫りつつ、後半では、世界に先がけて、「人類発祥の目的=神人合一」 の境地を体験された、宗源さんご自身についても伺っていきます。
このアーカイブ記事では、前半をピックアップしてお届けします。
お話◎宗源さん 取材・編集構成◎編集部文◎高畑薫
山窩の末裔、神人合一の体現者
宗源さん
Sohgen
Profile
そうげん◎本名・野村毅。山窩一族の末裔であり修験者。27歳から中津市山国町蛇淵にて龍神と修行を重ね、6年間の修行の果てに33歳で神人合一の境地に至る。修験者として研鑽を積む中、富山県の尖山に住む霊能者との奇しき縁によって、日本神界と古代史の謎へと迫る。現在も天岩戸や人類発祥の聖地がある地元に拠点を置き、人々を「神人合一」の境地に導くための受け皿作りに尽力。その傍ら、キャンピングカーで全国を回りながら講演活動を行なっている。著書『山窩 直系子孫が明かす【超裏歴史】』(ヒカルランド)。
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一般的に、「流浪の民」といわれる山窩は、天孫降臨以前から存在し、独自の文化や技術、文字を持っていました。彼らは天皇家や渡来系民族と関わり、独自のネットワークを用いて、国家の裏で情報伝達や国防、経済活動に携わり、ときにスパイとして暗躍していました。彼らの智慧や技術は、表の歴史には残りにくいものの、修験道や陰陽道、武士道など、およそ「日本文化」や「日本精神」と呼ばれるもののベースになっています。明治維新以降、山窩の力を怖れた欧米諸国によって、それらは弱体化され、第二次世界大戦後には完全に解体されたように見えます。ですが、一方で、山窩の権力や資産は形を変えて海外に移され、いまだ日本の国体を守っているのです。日本の歴史や社会の根幹を支えてきた、山窩。その精神は、いまも日本の根底に残っているのです。
参考文献:『山窩 直系子孫が明かす【超裏歴史】』(宗源 著/ヒカルランド)
この記事の目次
山窩の暮らし
山に住むことは力の象徴でもありました。山窩が山で暮らす理由のひとつに、「水」があります。山から海へと流れる水を守るためです。山から流れる水を確保しなければ、土地を治められません。山に住むことは力の象徴でもあったのです。

山が“ご神体”
山窩の信仰の対象は山そのものであり、神が降りる場所です。神と交流し、叡智やエネルギーを得るために山岳修行が行なわれていました。神事は、海の山窩と山の山窩が共同で行なっており、山に残る巨石などは、その痕跡だと考えられます。また、祖霊が山に帰るとの考えから、山の頂上にお墓を建て、後世を見守るという風習もあり、標高が高いほどエネルギーが高いとされました。
定住しない
山窩は定住せずに山中を移動しながら生活していました。岩穴や洞窟に柱を立てて生活し、簡単な小屋を建てることもありました。里 に 隠 れ て 住 む ケ ー スも あり 、さまざ まな 形 態がありました。基本的に、各地域の山窩は独立してしますが、一部には、里近くに住みながら山を往来する「居つき山窩」もいました。
結婚は山窩どうしで
山窩は家族単位で生活しており、秘密保持と血統維持のため、山窩どうしで結婚する決まりがありました。外部との婚姻は禁じられており、情報流出が原因で城が陥落してしまったという逸話も伝わっています。
生業
農耕はせず、たまに麦やヒエなど雑穀を食べることはありましたが、基本的に狩猟採集で暮らしていました。木や竹を使い、炭や木工 品( 挽ひきもの物※)を作るなど、山の資源を里に持ち込み物々交換を通じて独自の経済圏を築いていました。
※挽物:轆ろくろ轤を使って木材を回転させながら、刃物で削り出して作る木工技術、または製品。具体的には、椀、皿、盆、鉢、茶托など。挽物の職人を木地師(きじし)と呼ぶ。
山窩の医療
古史古伝の「竹内文書」「上記(うえつふみ)」に記されていたとされる手術法や、薬学などの医学は山窩によって継承されていました。その知識は、医学天文学・武術などが統合された総合的な医学体系だったと考えらます。
体の構造を熟知
彼らは体の構造、とりわけ骨格や経絡を熟知していました。西洋に先んじた身体観を持ち、針で痛みを消す技術も備えていたという話も伝わっています。
山の薬草文化
山窩は、英彦山などの特別な山域において、選ばれた者以外、立ち入りを許されない「霊気に耐え得る環境」で薬草を育てていました。薬草で作った薬は、山窩どうしの医療活動に用いたり、生業にしたりしていました。修験道の祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)は、疫病が流行ったときに、調合した薬を作って、人々を助けたという話が残っています。
山窩の武術
山窩の多くは修験的背景を持っており、霊的な結界術、祈祷、呪術を通じて武士の軍略・勝運祈願・土地鎮めなどに関与していました。特に役行者の系譜や陰陽道と交差するところでは、山窩の行者が“表に出ない軍師”のような役割を果たすこともありました。山窩にとって、武術と神事や呪術は別のものではなく、相互に関連し合っていました。修行の中で精神と技を練り上げ、それは、戦のためというよりは、祈りに近い武であり、命を守る術でもあったのです。
丹田と気
山窩の武術は、技や力に頼るものではなく、丹田に気を集めて全身を制御する、いわば「意識の武術」のようなものでした。いくつかの古武道流派の中には、山窩出自で受け継がれた型や戦法が存在するといわれています。
武士道のベース
武士道とは単なる「戦う者の規律」ではなく、精神・信仰・生死観・技術体系が融合したものです。その技術面 、特に忍術・兵法・山戦術・薬術などの分野では、山窩の知慧が下支えしていたという説が多く語られています。
骨と心を一致させる
剣術や居合道にも、骨と心を一致させる深い身体技法がありました。敵の気を読むことなく、自らの心を「無」にすることで、相手に付け入る隙を与えないというものです。
山窩の情報伝達術
山窩の情報伝達術は、敵に情報が漏れることは仲間の死を意味していたため、機密保持が徹底されていました。

法螺貝
法螺貝もまた、通信手段として使われていました。どの音が「集合」、どの音が「撤退」、あるいは「敵襲」を意味するのかは、一族や土地によって異なりそれぞれ 厳重に守られていました。これらは戦いや神事だけでなく、日常の連絡にも使われていたそうです。
暗号
山窩の情報伝達には、暗号が使われていました。たとえば、軒先に吊るされたカゴ編みには、五芒星や六芒星を組み合わせた幾何学的な暗号が織り込まれていました。それは「この家は安全」「敵に注意 」などのメッセージを含み、次に通る山窩仲間 に、言葉なくして状況を伝えていたのです。
飛脚と行者問答
山窩と山窩の間で情報を伝える役割を担ったのが「飛脚」です。修験道で行なう「行者問答」はその名残りです。戦いの際には裏切りもあり、戦国時代には山窩どうしの争いも起こりました。山窩であった役行者も前鬼と後鬼※に「 どこの者だ 」と問い詰められ 、信頼されるまで厳しく試されました。それほど秘密保持が重要だったのです。飛脚の末裔の証言では、いまでも山窩の名残が残っていて、「デンジロウ」や「デンバチ」など、名前に「伝」がついている人がいるのだそうです。
外交に対する影響力
土地に縛られない山窩は、血縁や信頼に支えられたネットワーク により、共同体の枠組みを超えて活動できるという特徴があります。そのため、動乱期や国交が閉ざされた時代でも、彼らは国境をまたぐスキルを持ち合わせていました。くわえて、山窩が受け継いできた言霊を読む力や呪術、霊感といった力も、外交における交渉に有利だったと考えられます。
満州国建国や日中戦争などの東アジア近代史において、山窩の財界関係者や外交的ネットワークが暗躍していたという逸話が複数語られています。 表向きにはゼネコンや貿易会社として動きつつ、裏では日本と中国の“親日派”との橋渡しをしていたといわれ、1972年の日中国交正常化も、彼らの交渉が実を結んだものなのです。
現代においても、たとえば1989年の天安門事件は、日本では単なる学生運動のようにしか報道されていませんでしたが、実際は親日派の為政者と中国共産党との勢力争いだったとか。このとき、多くの中国人学生が日本に脱出してきましたが、その手引きをし、日本国内で匿ったのは山窩系ネットワークだったと、関係者から証言されています。
※前鬼・後鬼:修験の開祖・役小角に使えたとされる夫婦の鬼。人に災いをなしていたが、役小角によって改心し、小角に従うようになった。
山窩と国家とのかかわり
天孫降臨の前から日本に存在していた山窩は、建国の最初から関わり、その後もずっと支え続けて日本の「国体(皇室)」を裏から護持してきました。 山窩が保有していた智慧や術は、「修験道」に受け継がれています。「皇室の神道」と「山窩の修験道」は、表裏の関係にあるといえるでしょう。

天皇家との密接なつながり
山窩は、古代から天皇家と密接なつながりがあったとされ、天皇家は山窩の血統であるとの説もあります。たとえば、英彦山ではかつて皇太子が山窩の頂点として修行を積み、のちに天皇となった時期もあったという逸話も残っているのです。これは宗教的な修行というよりは、国家を背負うための霊的・実践的訓練であったと考えらます。 山窩は天孫降臨前から日本列島に住んでいた人々で、天孫降臨(渡来系の人々)した人々が皇室を確立したとすれば、最初から山窩(豪族)と交流し、ともに国を築いていったと考えられます。八咫烏と協力し、全国の山窩ネットワークを統一したのが、神武天皇です。「大きい和(大和)」というのは、独立していた山窩の各部族が和をもって住んでいたからだと考えられます。皇室も山窩から生まれ、山窩が陰から支えていたのです。
情報・呪術・霊性による影響力
明治維新以降の急激な中央集権化により、山窩は表から消された存在となっていきますが 、一部は、以前からの大陸ネットワークを通じ、水面下で国体としての日本を守る作戦を開始していたとの説が囁かれています。特に、満州国建国の際、山窩の血筋を持つ人物が日本軍・財 界・中 国王族との間を取り持ったという証言が残っています。たとえば、富山のある山窩一族の末裔は、いまも霊能力も含む呪術的な能力を保持しているため、内閣調査室や官庁関係者、政治家も足を運んでいたとの当事者による証言があります。為政者が病に倒れた際に、京都や江戸の医者が治せなかった病を修験者が癒したという伝承もあり、昔から政治の中枢に山窩の呪術や霊性が接触していた例も存在します。
山窩は日本の国防にとって非常に重要な存在でした。山窩は表の政府と異なる形で国の守りを担い、秘密裏に動くネットワークを築いていました。戦や外交の局面では呪術的アプローチや優れた兵法術、武術が重要視され、活用されていた側面も見逃せません。旧階級が解体された明治以降も山窩は、財界や軍部などと深く結びつき、それは形を変え、今日まで続いているようです。
日本を守っていた山窩
海の山窩
山窩には「山の山窩」と「海の山窩」が存在し、島国である日本の防衛において、協力関係を持っていました。海の山窩は、天体観測を通して潮流を読むなど、卓越した操船技術を持ち、国防の最前線を担っていた存在でした。蒙古襲来※の際も、最前線に立ったのは、この海の山窩でした。潮の流れや地形を熟知していた彼らは、海人族を通じて、大陸ともつながっていたため、神風が吹かずとも、充分に対抗できたのです。また、法螺貝を使って「龍を呼ぶ」「風を起こす」など自然との共鳴によって戦力を増幅できたため、「神風」を吹かせることができたのでしょう。

八咫烏
八咫烏については、古史古伝に多くの文献が残っています。そこには、天皇家とは別の独立した文明があり、それが天皇家とつながっていたと記されています。そのつなぎ役が山窩の中でも特別な役割を持つ八咫烏です。山窩の中でも道案内ができる人たちで、神武東征の際の八咫烏はその象徴です。
じつは山窩だった信長・秀吉・家康
戦国時代にフランシスコ・ザビエルが来日してから、イエズス会は布教と貿易を通じて日本に深く関わるようになりました。最近ではキリスト教の宣教師は他国を侵攻するための先兵隊で、彼らはその国を内戦させて、実質的に侵略してきた事実が一般的にも知られるところとなりました。
山窩どうしの争い
日本も例外ではなくじつは キリシタンが来たときも山窩が守り、裏切ったのも山窩でした。信長・秀吉・家康はともに山窩の血筋です。信長が比叡山を焼き討ちにしたのは、山窩どうしの争いが背景にありました。秀吉は表向きにはキリスト教を禁止しましたが、実際は西洋勢力とつながっていました。千利休もまた山窩で、秀吉よりも上の地位だったともいわれます。利休がフランシスコ・ザビエルと密談した家も現存しています。
山窩の智慧が反映した江戸時代
じつは、家康は山窩たちが担ぎ上げた将軍です。ご存じのように、家康はキリストを完全排除し、鎖国に踏み切りました。ただ、実際には鎖国というよりは、海の民が強かったために、外国船が入ってくることはできなかったというのが実情です。そして、内乱を避け監視するために「参勤交代」を実施し、明治維新までの約260年もの間、日本史上でもっとも平和で安定した時代となったのです。 武士を頂点とした厳格な身分秩序を設け、町人文化が花開き、庶民教育が広まった影にも、山窩が影響していたのでしょう。つまり、江戸時代の平和は、海と山の山窩が連携して、国防に取り組んだ結果なのです。
※蒙古襲来: 1274年11月に蒙古(元)と高麗の連合軍が対馬・壱岐を経て博多湾に上陸したが、日本側の防衛と暴風雨の影響により撤退。1281年6月から8月にかけて、1回目を上回る大規模な軍勢が再び襲来したが、台風(いわゆる「神風」)によって壊滅した。
明治維新と山窩
明治維新の大きな目的のひとつは、中央集権国家としての日本の再設計でした。山窩が国を守りきれなくなった背景には、連射できる銃を西洋が開発したことに起因します。戸籍制度や地租改正、徴兵令などは、山窩をあぶり出す動きでもありました。これにより、山窩は公式に「消された」ことになります。
山の利権を剥奪される
維新前、山窩は金山・炭鉱・森林資源を管理しており、これに基づく経済力や流通経路、霊的信仰の場所までを含む、国家と一線を画する独立した世界を築いていました。しかし、明治維新によって、山林は国有化・法制化され、文化的・経済的基盤は失われ ることに。山窩の伝承・文字・呪術・生活技術の多くが失われ、子孫たちは “里人”として社会に同化していきました。
抵抗・協力・潜伏
一部の下級の山窩は新政府に協力的な行動をとり、情報収集や外交など、陰の任務に関与する一方、明治維新を「西洋勢力による侵略」「日本の霊的背骨を崩すもの」と見て抵抗したグループも存在したと考えられます。さらに、山中に潜った一族もいれば、表向きに姿を変え、財界や宗教界に転じた者もいたようです。秘密結社的なネットワークや個人の修行者によって、山窩の精神性は密かに伝えられ続けたのです。
山窩の末裔、神人合一の体現者
宗源さん
Sohgen
Profile
そうげん◎本名・野村毅。山窩一族の末裔であり修験者。27歳から中津市山国町蛇淵にて龍神と修行を重ね、6年間の修行の果てに33歳で神人合一の境地に至る。修験者として研鑽を積む中、富山県の尖山に住む霊能者との奇しき縁によって、日本神界と古代史の謎へと迫る。現在も天岩戸や人類発祥の聖地がある地元に拠点を置き、人々を「神人合一」の境地に導くための受け皿作りに尽力。その傍ら、キャンピングカーで全国を回りながら講演活動を行なっている。著書『山窩 直系子孫が明かす【超裏歴史】』(ヒカルランド)。
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